大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

仙台家庭裁判所 昭和42年(少)1516号 決定 1967年11月07日

少年 B・M(昭二四・一一・一二生)

主文

この事件について少年を保護処分に付さない。

理由

一  まず、当裁判所の審理の結果によれば、次のとおりの非行事実が認められる。

少年は、かねて長兄S(当一九年)が些細なことを理由に飲酒したうえ家の内で刃物を持つて壁・柱・家具などを損傷するなどの乱暴をすることに、父K(盲人)・母T江(盲人)・弟Dらとともに苦慮していたところ、昭和四二年八月○○日頃Sが、当時勤務していた鉄道弘済会食堂部を八月一杯で辞めて仙台市内でバーを開業したいといい出し、祖父の内縁の妻T・Y子(以下祖母ともいう。)に、「開業資金二〇〇万円の都合をつけてくれ」と要求していたが、以前からSを溺愛していた祖母が、一応何とかする旨の返事をして金策してみたが不成功に終つた間の事情を祖母から聴いた父母から、同月△△日夜、「五〇万円位なら自分達で何とか都合してやるが、二〇〇万円は多い。未成年の者が水商売をする金について保証人になつてくれる人もないから、はじめは小さくやつたらどうか」と忠告されるや、にわかに、「それでは祖母との約束と違う」と激昂しそのまま外出して飲酒して、同日午後一一時三〇分頃、仙台市○町○○番地の自宅に帰宅し、台所から刺身庖丁を持ち出して、既に就床中の父・母・祖母らに向つて、「金など一銭もいらない。あの婆嘘つきやがつたからぶつ殺してやる。」などとわめきながら、台所その他の壁・床板などに右庖丁をつき立てるなどいやがらせを始めておさまらないのに対し、同月××日午前一時頃、父Kが、Sをなだめて寝かしつけようとして、酔つて刺身庖丁を所携しているSが自分に打ちかかつて来る万一の場合のことを慮つて、その際の防禦具として日本手拭一本を懐中に入れたうえ、暴れているSの傍に近づき、「もう遅いから早く寝ろ。話は明日にするように。」と注意した(この時より少し前にSの持つていた庖丁は祖母Y子によつて取り上げられていた。)のに対して、Sが、ますます激昂して、右注意をしたのち寝室に戻ろうとしている父Kの背後から、やにわに飛びかかつてKを階下八畳間に押し倒したため、同所で、KとSとが組み合いの格闘となつた際、Kが咄嗟に、「このSさえいなくなれば家庭は平穏である。親に向つてこのように手向うSをこの機会に殺そう」と考え、格闘中に、所携の前記日本手拭を懐から取り出して左腕でSの頸部を巻き両手で緊絞したところ、右手拭が古かつたために切れて、なおも格闘を続けたが、右両名の格闘をやめさせようとして、母T江が二階で就寝していた少年とDを呼んだのに応じて、少年はDと一緒に階下八畳に降り来り、少年が父の右肩部を、DがSの左腕をそれぞれつかんで両名を分けようとしたができず、格闘をやめさせるにはSの方を押え込むにしかずと考えて、T江・Dと共同して、少年がSの右腕を、DがSの左腕を、T江がSの両足をそれぞれ押えてKに加勢したため、KがSの体の上に馬乗りになる形でSを仰向けに押え込んだが、押え込まれながらも、Sが「離せ、離せ、お前らみんなただではおかないぞ皆殺しにしてやる」などと怒鳴つて起き上ろうと体を動かす剣幕をみて、T江・少年・Dも、「手を離してSを起き上らせては父がSからどんな危害を加えられるやも知れぬ、この際Sを殺害するのもやむをえない」と考えるに至り、ここに父Kと右三名の者とはS殺害の意思を通じ、少年は、Kから「タオル持つて来い。」と命じられると、一旦Sから離れて隣室からバスタオル一本を持つて来て、これをKに手渡して再びSの右腕を押えつづけ、Kが右タオルをSの頸部の後部から巻きつけて前で交叉させ、左腕で右タオルの右端部(Sの側からみて)を持ち、Dが右腕で右タオルの左端部を持つて、同時に強く引つ張つて絞めつけ、よつて同日午前一時二〇分頃、前記階下八畳間の縁側において、Sを窒息により死亡させたものである。(この事実は刑法第六〇条・第一九九条に該当する。)

二  右に認定した犯罪は、家族の長男殺しという、犯罪の中でも最も悲惨且つ深刻なものの一つであるが、このような重罪事件発生の背景となつた少年の家庭内の葛藤と被害者である長兄Sの行状についてみるに、

少年の家庭は、共に盲人の父K、母T江が共同でマッサージ業を営んでいるが、被害者S、次男の本件少年及び三男のDの五人の家族のほかに、少年宅と同一敷地内の別棟に祖父G(母T江の実父、中風で昭和三二年五月来病臥中)と祖父の内縁の妻Y子(昭和一九年からGと同棲)が起居している。

Gは、時価にして約二億にのぼる自己名義の資産を有するが、実娘T江よりも、内妻Y子及びその連れ子(二名、夫々独立して他所に別居)を可愛がり、Y子の連れ子には資産を分けてやつても、T江に対しては日頃から疎遠にして何らの特別の経済的援助をしてやらず、ためにK、T江の夫婦は独力でマッサージ業を営み生計を立てて来た。右の事情から、G、Y子夫婦と、K、T江夫婦との間には表面的には平穏であるが内向した感情的な対立があり、これが、少年の家庭内の一つの葛藤となつていたと考えられる。

右の葛藤を原因として、中学時代から、我儘となり父母に反抗するようになつた長男Sが父から叱られると祖母Y子のところへ逃げてゆき、Y子がわけもなくSをかばうということが多くなり、Sの我儘と反抗的態度が昂じるにつれて次第に祖母がこれを溺愛することになつた。Sは、昭和三八年○○高等学校に入学し、学校内ではさしたる問題行動のない目立たない生徒であつたようであるが、家庭内では祖母の溺愛によつて、いよいよ増長して盲目の父母を馬鹿にするとともに、二年生の同三九年四月頃から怠学が始まり、煙草・飲酒・夜遊び・浪費をおぼえ、同年六月には、父母にオートバイを買つてくれといつて、刃物を家の中で振り廻して家具を損傷するなどの乱暴をし、同年六月○日恐喝未遂事件を起している。この事件が当庁に係属中の同年七月末に右高等学校を中途退学して埼玉県○○の父方叔母に預けられ(このことによつて右事件は審判不開始で終局した。ちなみに、当時の調査記録によれば、その頃のSの性格、行動傾向は「素直な面もみられるが、一寸したことで頭に来るたち、家庭内でも自己の欲求が通らないとすねた態度をとり親のいうことをきかず物に当つて暴れる。思慮が浅く軽卒で物事にあき易い傾向があり、内省力に欠け、上ッ調子」と観察されている。)たのち、翌四〇年三月に帰仙するも、一〇日後には無断で家出し、柴田郡○○○町のキャバレー「○リ○ス」のバーテンとなり住込んだが、何回か自宅に金の無心に戻つたのみで、両親らの、帰宅して堅い仕事に就け、との説得には耳を借さず、右キャバレーに稼働中に、暴力団○○会の者との交際もあつたようである。

昭和四一年六月二五日にSは帰宅したが、その際二歳年長のホステスE子を連れて帰宅し、同年九月に同女が出奔するまでの約二ヶ月間自宅の敷地内の部屋で同棲した。右帰宅の日、父母から意見されたことなどからビールを飲んでいる際に激昂して長さ約二メートルの角材をふりかざして父Kに殴りかかろうとして制止されたことがあつた。その後○○貨物株式会社の運転助手あるいは鉄道弘済会食堂部に人の紹介で勤務したが、些細なことで面白くないといつては飲酒して帰り、家の内で刃物などを持つて乱暴するという所業はやまず、少年の家庭を暗くし、家庭内葛藤のもう一つの原因となつていたと認められるのである。

三  そこで、このような家庭内の葛藤に対する本件少年の心情と本件非行の動機・態様についてみるに、

調査・鑑別の結果によれば、少年は、祖父母と実父母との間の感情的対立については自覚がないようであるが、父母のことは、目が不自由でありながら苦労して自分達を育ててくれたことを感謝して、できる限り父母には心配をかけないようにして、親孝行したいという気持が強く、家庭外で苦しいことがあつても親には話さず安心させたいと考えていたようだが、それだけに、盲人の父母に乱暴し迷惑をかける長兄Sを、いけない人間であると考えており、Sとはできるだけ顔を合わさないようにして、内心で、盲人の父母を困らせず、早く真面目になつて欲しいと願い、少年なりに懊悩しながら次第に、兄の行動及び兄という人間そのものを全く受容することができなくなつていたようである。

実兄に対してこのような心情を持つていたことから、本件非行当時、例によつてSが飲酒して帰宅して乱暴し父と格闘するのをみて、少年が、一旦は両者を引き離そうと努力はしたけれども、簡単にそれを諦めて、盲目の父に加勢するのを選んだことは容易に理解できるのであり、その行為の態様も、父の命ずるままに殺害用具となつたタオルをとりにゆきこれを父に手渡して父の行為に共同したものであり、共同正犯としての行為と認められはするけれども、前に判示した父Kの行為と対比してみるとき少年の行為が追従的なものであつたことは明らかである。

勿論、いかに憎むべき兄であるとはいえ人一人の生命を奪うということは許さるべき行為ではないが、本件犯罪は、長兄対父母、少年及びDの四名との間の抗争の結果であり、Sを除いた家族らが自分達の家庭生活の平穏を獲得するために、いわば家族共同体として行動した行為に、本件少年も一員として加功したものであると考えられ、このことは本件事件直後の父母、少年、Dの誰もが一致して「こうするよりほかにしかたがなかつた、やむをえなかつた」旨述べていることからも窺えるのである。

四  ところで、本件非行を犯した少年自身の資質・生活態度等を検討してみよう。

少年は、盲目の父Kと盲目の母T江との間の三男中の次男として肩書地に出生し、昭和四〇年四月に○○高等学校に進学して現在三年生である。

少年は、小学校時代から家出・家財持出その他の問題行動は一切なく、家庭では親孝行で、小学生の頃から今日まで、父母が出張治療に出掛ける時には、必ず、弟のDと交替で盲目の父母の手をひいて送迎し、その姿には近所の人々も賞讃を惜しまない。少年には父母が盲人であることについての劣等感はなく、父母の送迎も当然のことと考えている。

そして学校生活では、前にみた家庭内の葛藤を昇華すべく高等学校入学後は硬式庭球部に籍をおいて庭球一本に打ち込み、日曜・夏中休暇も練習に励んでこれに没頭し、第二学年(昭和四一年)の七月に、推されて主将となり、本年六月の宮城県高等学校総合大会庭球部会には、主将として母校を団体優勝へと導き、同じく七月には、○○高等学校東北選手権大会庭球部会にダブルス戦で初優勝し、八月には、国民体育大会宮城県予選の決勝戦まで進出する(本件非行の当日が決勝戦の日であつた。)など、主将としてよくその重責を果すとともに、硬式庭球部で活躍しながら勉学にも励み、成績も二年頃から中位に向上し、硬式庭球部部員及び級友らの信頼を得ていたし、学校側も、校則を守り校内の秩序を乱す行動もなく礼儀の正しい生徒として信用を置いていた少年であつた。

鑑別の結果によつても、本件少年の性格・資質の上で問題とさるべき点は見出すことができない。

五  そこで、本件少年の処遇について考えるに、本件非行は極めて重大な犯罪であり、それに加担した少年の行為も如何なる理由があろうとも厳しく反省を迫られるものでなければならぬことは自明である。

しかし他面、前判示のように、本件犯罪は、長兄Sの日頃の不良の行状に基づく家庭内葛藤を主たる原因とし、直接には、Sの盲目の父に対する理由のない挑戦的格闘を発端として偶発的に惹起された犯行であつたし、少年自身の所為も、一旦は父とSとの格闘の仲裁に入りながらも右にみた家庭内の葛藤を、積極的に解決する力量もなく方策も持ち合わせない本件少年が、自分も含めた家族の平穏のために、偶々訪れた異常な事態に是非の分別を忘れて、日頃受容することのできなかつた兄に対する嫌悪の情と盲目の父母に対する同情とから夢中で父の殺害意思に同調して追従的に父の行為に加担するという形でなされた非行である点などに酌量すべき情状が存する。

本件非行の時まで、盲目の父母に対して孝養を尽し、何らの問題行動のなかつた本件少年をも、加功せざるをえざらしめたところに本件犯罪の悲惨さが象徴されているが、それだけに、捜査段階には、少年は悪びれず、本件を一場の悪夢として運命的な事件として受けとめていたようであるが、本件審理時には、落ち着きも取りもどして、悔悛の心情が顕著に窺われ、本件非行後も、学校側の寛大な処置あるいは硬式庭球部部員・級友らの思いやりのある友情に支えられて無事通学し、来春の卒業を目指して勉強にも励もうとしている。

そして本件非行の性質上同種非行の繰り返される虞れはなく、少年が本件非行を契機に従来の生活態度を崩して不良化するという虞れも少年の従前の生活態度・その資質に徴すると、全く認められず、少年の保護者も、本件については事理の判断を大きく誤りはしたけれども、父Kは、宮城県盲人協会副会長の地位にあつて衆の信頼を集めている者でもありその今後の少年らに対する保護についての意思・能力を有すると認められる。

以上から、本件少年に関する要保護性は、事案の重大さにも拘らず、極めて微弱であると認められるし、本件非行によつて少年が将来社会的に蒙ることのあるべき不利益と盲目の父母の行く先の面倒をみなければならぬ立場とを考えるとき、本年一一月下旬に学校長の推薦を得て受験する就職試験に憂なく臨ましめることも少年の更生に資する所以であると考えるので、当裁判所は、訓戒・説諭のほか、本件審判に出席した○○高等学校担任教官に、少くとも卒業までの間の少年の保護を依頼するにとどめ、少年をこの事件について保護処分に付さないこととする。

よつて、少年法第二三条第二項の規定に則り主文のとおり決定する。

(裁判官 竹沢一格)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例